実家の島根県にある一畑電鉄。松江温泉駅から祖母の住んでいた(今は老人施設に住んでいるので)出雲大社を走る私鉄。実家にいたころは何度か利用した。旦那と帰省するようになってからなんとも言えないノスタルジックな電車にもっと惚れて利用している。で、この夏の帰省時、乗りはしなかったが、駅に行って足湯につかった。その時みた看板。Railwaysって映画が作られていたと知った。偶然にも帰りの飛行機の中で上映中の映画のひとつだったので、見てみた。

大好きなふるさと、ゴトゴトと宍道湖湖畔と田んぼの中を走る。出雲大社の駅のシーンは自転車で駅まで送り迎えに来てくれていた祖母のことを思い出す。旦那はとてもこの映画を気に入っていた。私もと言いたいところだが、ちょっと気に入らないところがあったのだ。

主人公の母親が死ぬ場面だ。彼女は余命短いがんと診断され、本人に告知されることなく死ぬのだ。本人に告知をしないことが、未だに当たり前なのだろうか?と考えさせられた。それに加え様態が悪くなったとき、酸素やら点滴やらして持ち返し、最後の場面も再び、そういう医療行為をする中で亡くなった。これが普通の市民が想像するがん患者の最後の時なのだろうか、と。そうだとするとホスピス緩和ケアのフィロソフィーはまだまだ浸透していないのだ、と思わされた。それと同時にこういう誤解を招くようなドラマや映画をもう創らないで欲しいと思った。

人間らしく最後の瞬間を生きる。医療者にベッドの周りを占領されるより、静かに大好きな家族の手を握りながらさようならができる、そういう環境を整えられることが大切だ。「お医者様にすべてを尽くしてもらった」という家族の満足感、「すべてを患者に施した」という医療者の満足感が何よりも優先されている。患者自身はいったい何を望んでいたのか?その人の人生の最終幕をその人らしく下ろすことができたか?が抜けている。患者が中心にいるはずなのに、患者が抜けてしまっている。そういう古い医療モデルからの脱出を願いたい。