英語が少ししか話せない患者さんなの、プライマリーになってくれない?とまた頼まれた。英語が話せなければ通訳を頼むが、いつもいつもというわけにはならない。今二人ほど先述の理由で担当地区が違ってもプライマリーになっている日本語を第一言語にしている患者さんがいる。

30年以上ここへ住んでいていてもやはり母国語が良いよ、と日本語で話しかけると喜ばれる。二ヶ国語話せるってこういう時に重宝するもので。私自身も懐かしい言葉と文化に触れてほっとする。

先日はソーシャルワーカーと共同訪問だった。患者さんの希望で私が付き添うことに。なので通訳を依頼する必要はないと言うと、ソーシャルワーカーに”本当に大丈夫?”と何度も念を押された。自分は通訳が本業でないから難しいのはわかっている。しかし3人で押しかけるのもなんだか気が引けた。ショーシャルワーカーの彼女とは長い付き合いで、彼女がこの訪問でどんなことを話すか知っているし、きっと大丈夫と望んだ。

ソーシャルワーカーはいつもののりでよく話す(心地よいほど話し上手な彼女)。何度か長すぎて最初に何を言っていたか忘れるほど。特に患者サイドがうなずくので、彼女はわかっているものだと話を進める。しかし現実は違う。わかっていないのに首を振るのは日本人の悪い癖だ。何度か、彼女のしゃべりを止めて通訳をした。無事終了。両サイドとも納得のいく訪問だったようで、ほっとした。

私が通訳を呼ぶ時もある。同じ言語でも違う通訳が来ると、同じことを言っても話す量が違うので、結構興味深い。きっと通訳さんの技量にもよるのだろう。

ソーシャルワーカーとの共同訪問に戻って、改めて思ったのは文化の違いの大きさだ。私にとっては日本人女性の普通の反応と思うことも、ソーシャルワーカーの目からは違うようにとられる。外に出てから日本文化の説明をしても、でも今こういう方向に進めとかないと後で困るのは残された家族でしょう、と。いや、家族も日本人だから北米人と同様には思わないと、私は思うけど、と伝えてみても真からの理解は得られなかったような気がした。その人それぞれの文化背景が人を解釈するのにとても重要な役割を果たしていることを改めて思わされた。こういうことからもこちらに住んでいる日本人の方の力になれたら、と思わずにはいられなかった。

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