ホスピス、緩和ケア看護覚書*カナダ編

カナダでホスピス看護師をしています。2009年9月からバンクバーの某大学院 でMaster of Science in Nursing を始めました。End of Life CareのCNSになれるようにがんばります。半学生、半看護師の生活です。そして3児の母親でもあり、カナダ人の夫とは11年たっても熱愛中でごじゃいます。ブログに登場する人物名はすべて仮名です。

看護

遠く離れて

早めにリタイヤして居心地の良い場所でリタイヤ後の生活をすごすカナディアンは多い。子供たちが都市へ移住し田舎で老後の生活を送る人もいる。最近こういう人たちが遠く家を離れてホスピスへやってくることが続いた。

ライリーはガルフアイランドの小島でゆったりとリタイアメントの生活を愛犬コリーと妻と過ごしていた。がん治療そして再発。それでも美しい島にできるだけいたいと思っていた。しかし自宅での転倒。これが決めてとなりもともと住んでいた街、子供たち夫婦が住む街にあるホスピスへやってきた。コリーと妻もホスピスへ引っ越してきた。子供たちが毎日見舞い申し分ないというライリー。しかしたまにふっと妻に「島の家に帰りたい」と漏らす。「もう帰れない、ここで最後を過ごすんだって決めたでしょ」と妻に言われると「わかってる、、、。でも口にしてみたかったんだ。」と聞いている方の胸が痛む。病院も訪問看護もなくリゾート地のような小島。ホスピス難民とライリーのことをよぶのだろうか。

ハナは隣町にホスピスがあったが、どうせ地元の施設へ行けないのなら子供たちが住む街のホスピスへとやってきた。ロッキー山脈の美しい山々に囲まれた土地から、1000Km離れた街へ。山道を走り車で14時間以上かかる遠さだ。生まれ育った街では女性活動家として有名だったハナ。勲章をもらったり市民の信頼や友達は数え切れないほどだ。「友達より子供を選んだの」と氷河をかぶった山の写真を見ながらため息をつく。長距離電話がかかってくることを楽しみにしている。

国土が大きく人口の少ないカナダ。過疎地の医療はいつもながらテャレンジだ。

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ベリアトリック

300パウンド(約136kg)以上体重があるとベリアトリックと呼びます。肥満の多い北米。もちろん肥満学、肥満看護なるものもあるわけで。これぐらい大きくなると普通のベッドに入りきらなくなるので、ベリアトリックベッドやベリアトリックリフト, ベリアトリックストレッチャーなどなど専門の看護用具もあるのだ。天井からのリフトは600パウンドまで吊り上げれるようになっている。

で、先日久しぶりにベリアトリックの患者さんがホスピスにやってきました。PPSは10%(症状安静で口腔ケアのみでとても死に近い状態)。それなのに普通のベッドで天井リフトもない部屋!?スタッフにどうしてこんなことになったの?!と聞くと昨日までこの患者はトイレまで歩行していたとか。でもここはホスピス。ほとんどの患者さんが死に向かって一歩一歩進むところ。先を見越してケア計画を立てることが大切だ。私だったら必要な部屋や器具がそろっていなければ受け入れをしなかった。PCCが休暇中で当日のスタッフはそんなことは知らなかったと。

で、病室へ行ってみるとやっぱり、、、。ベッドに横たわる患者さん。ベッドに隙間はなくぴったりで横向きにもなれない。大きな体は反対側から手が届かないほど山のようで。

大きな病棟だったらスタッフの数も多いので4人でケアをすることができる。しかしここのホスピスは2人勤務だ。天井のリフトなしでは背中を洗うこともできない。ベリアトリックベッドはレンタル会社から配達してもらわなければならないので、お金も日にちもかかる。天井リフトがある部屋は空く予定もなく。

無理にケアをして看護師が怪我をすることも避けたい。隣の病棟に助けを求めたがあっさり断られた。こういうことは日中に上の人たちがコミュニケーションをしっかりとってもらわないと助けがもらえない。私がした決断は勤務交代の時ケアをすること。患者さんには申し訳なかったが12時間仰向けのまま、、、、、。すでに意識がないことを救いに、、、。

必要な用具や必要なケアができる環境がどうか、そういう判断力も大切な看護のひとつだ。

 

 

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3人の子供

50代のロンは3人の子供がいる。23歳、21歳、そして16歳。ロンの妻もロンと同じように進行性の癌と診断され治療を受けているが、すでに車椅子の生活で病院に入院中だ。

ロンはいつも3人の子供たちのことを自慢していた。とても自立した良い子供たちだと。まだ高校生の末っ子を上二人が良く面倒を看てくれいると。両親が同時に癌と診断され闘病生活をしている。しっかりした子供たちといっても、、、苦難に面している。看ている私たちの心も痛む。

ここ数週間ロンの衰弱は著名だったある日、ロンが重積痙攣を起こし意識が低下した。抗痙攣剤の投与をしても痙攣はなかなか治まらない。日勤の看護師が子供たちにそのことを告げ、親戚や友達も駆けつけた。夜勤の私がロンを訪れた時、ロンは車椅子に乗った妻と大勢の人に囲まれていた。妻が病院へ戻らなければならない時、子供以外はすべて一緒に帰っていった。子供3人は今夜泊まりたいと。私は3人が泊まれるように部屋にベッドを用意した。ロンのケアをしていると四肢に循環の変化が見られた。もしかしたら今夜持たないかも、と私は感じた。

彼らに接するのは、その日が初めてだった。日勤者から予後が悪いことはしっかり話したからと聞いていた。私はそのニュースをこの子供たちはどう受け止めているのだろうか、と思った。

それぞれの自己紹介を受けて、ロンがどれだけあなたたちのことを誇りに思っていたか、伝えた。病状のこと、呼吸や循環状態が良くないことも話した。すると「今夜父は死ぬんですか?」と長男が尋ねる。「驚かないわ。でも確実に起こるとは約束できないの。どんなに経験をつんでもそれだけは、患者さん次第だから」とロンの手をさする。「患者さん次第って、どういうことですか?」と長女。「いろんな患者さんが逝くときに立ち会ってきて、いつも思うのだけれど、患者さんが納得した時や、思い通りの時に旅たつのだな、って思うの。それほど人間は自分の体をコントロールできるのよ。そう信じたいとこの仕事をしていて思うわ。」私は続けて「気持ちの準備はどう?もちろんどんなに頭でわかっていても完全に準備ができたなんて思える人はどこにもいないわ。愛する人が死ぬんだもの、、、、きっとねロンも若いあなたたちを残して死ぬのはつらいと思うの。だからねあなた達の方から、さよなら、お疲れ様、しっかり生きていくからって、ロンが安心できるような言葉でさようならができたら良いだろうな、って思うの。もちろん強制なんかしないわよ。簡単なことではないから。さよならって言わなくても今の気持ちや感謝の気持ち、しっかりロンに話してあげて。ロンにきっと伝わるから。何人も見てきたわ。会話ができないからって話しかけるのをやめてきた家族。でも体に触れながら話しかけるの。声に出さなくても、心の中でも良いわ。きっと伝わるの。だって患者の表情に変化が出たりするもの」と話し終わると偶然にもロンが咳払いをした。私たちは顔を見合わせて笑った。「ほらね、ちゃんと聞いているでしょう?!」

長男が「わかりました。今まで声かけをずっとしてきたけど、一人ずつプライベートに父と時間を過ごしたことはないから、やってみます。ありがとうございました。」と。「他に質問は?」の問いに全員が首を振った。末娘は真っ赤な目をして父親の手をさすっているが私に向かってにっこり微笑む。私の娘のAJと同年だ。どんなにつらいだろう、、と私まで泣きそうになった。

夜間に見回りや投薬時に3人の子供たちはぴったりロンにくっついて眠っていた。20代といっても子供のような寝顔だった。ロンの痙攣はその夜もう起こらなかった。そして一週間後に永眠された。妻と子供たちに囲まれて。きっと子供たちの準備のため一週間がんばったロン。あなたも立派な父親だったって証明してくれた。

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カレンさんの旅立ち

あの会話の翌日カレンさんが亡くなられた。カレンのお母さんが慌てて、呼吸が速いの!と呼んだので受け持ちではなかったけれど、病室に向かった。呼吸が速拍で呼吸苦を尋ねるとうなずくカレン。受け持ちの看護師にレスキューを頼んだ。痛みは否定する彼女。

カレンはお母さんをジェスチャーで呼ぶ。そして起き上がりたい、お母さんに抱きしめてもらいたいと。18歳の息子と私の3人で座れるように手伝った。お母さんが彼女を抱きしめたら呼吸が不規則になり病室の外にいたご主人を呼んだ。

ご主人が入室してからカレンはしきりになにか話そうとしている。お母さんは「何?何が言いたいの?聞こえないわ?え?何」と一生懸命耳を傾けていた。私は、もしかして昨日の約束?最後の時はお母さんとご主人だけで子供はいてほしくない、て。息子は大粒の涙をこぼしながらカレンの手を握っている。どうしよう、と迷った。でもカレンと約束した、と。

「昨日のことですか?最後の時はお母さんとご主人だけで子供さんにはいてほしくない、て言われたことですか?」と聞いた。そしてうなずくカレン。うーっと心が重くなる私。でもカレンのため!

私はまっずぐ息子さんの顔をみて昨日の会話のことを話した。息子さんは「いやだ、僕は絶対ここから動かない!お母さん!」と。もう私の心は張り裂けそう、、、。私は即カレンに向かって「聞いた?大丈夫よカレン。きっと彼は大丈夫。だからそばにいさせて、素敵な息子さんじゃないの!」と言った。カレンの表情が柔らかくなって、最後の一呼吸をされた。そして二度と息をされなかった。

私の頭は真っ白だった。死後の記録の中に死の評価項目がある。そのうちのひとつに’患者が望んだ死に方ができたか’イエス、ノーどちらにつけるか迷った。どっちだったんだろう。息子がその場にいることで望みどおりにならなかったのか、それとも彼の強さをみて安心して彼の同席を喜んだのだろうか、、、、。

最後の時の過ごし方を話す時、もっと状態の良いときだと、子供の参加についてもっと話し合うことができる。何度も書くが子供は死に際にいるべきではないと思う人は多い。しかしそれが正しいとは限らない。死に際やお葬式に参加しなかったために、’死’をかえって受け入れられなくなる子供もいる。だから18歳と3歳の子供をもつカレンが’子供なしで’と言った時もっと子供のサポートについて話したかった。しかし彼女の状態は不安定で長い会話ができなかった。私のいい訳だ。

彼のことが気になった。母親の死に間際に退室するように言われるなんて、、、、と。しばらくしてから彼と話をした。とてもしっかりした子で驚いた私。そばにいてよかった、と。私は安堵した。コミュニティーのサポート機関やグリーフにつていも話した。はにかんだ笑顔でありがとうともいった彼。わたしよりずっと大人びているかも、とも思った。

カレンさんに評価を聞くことはできない。満足のいく最終幕が閉じれたとカレンさんが思っていてくれることを願うこと、それだけだ。

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パワフル

YouTubeで見つけました。患者さんの声ほどパワフルなものはない。

話の中で自分ががんだったら診断や予後について告知してほしい、と答える人が多いのに、家族の立場で患者に伝えてほしいと思いますか?という問いに「思う」と答える人が少ない、とありました。

同じ質問をカナダでしたらどうなるだろうと考えました。きっと同じような回答かもしれない。死に逝く人を前にどうやって接して良いか「わからない」と思う人は北米でも少なくないからだ。以前にもの書いたが、こちらの告知率は100%。どうしてかというと情報の提供は義務として課されているからだ。以前にも書いたが患者を飛ばして家族に「どうしましょうか」と相談することは医療者として情報の守秘義務に反するので行ってはいけないことだからだ。

先も言ったが死に逝く人を前に戸惑う人は多い。ホスピスの名を聞いただけで嫌悪する人もいる。最後の最後までホスピス緩和ケアのサポートを拒否する人もいる。難しいケースはたくさんある。しかしこちらではボランティア団体や医療者がそういう人たちをサポートでいるようにトレーニングを受けている。そこが大きな違いかもしれない。

「死ぬ前にたった少しの時間でもよいから家に帰りたい」死ぬ前にやっておきたいことの話もビデオの中であった。とても大切なことだ。残された時間を有意義に、そしてやっておきたいことをやり遂げることができるようにサポートすることは重要なこととホスピス緩和ケアの中で位置づけられている。こういうことができるためにも患者本人が予後を知ることは大切だ。これをサポートできる医療と社会の体制が日本で整ってほしいと思った。

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自殺企図

休憩から戻ってくるとカバーしてくれた看護師がさっきアマンダの娘が電話でアマンダは自殺企図があるから、今夜はしっかり睡眠薬をあげて変なことをしないように眠らせてって言ってたわよ、と言う。なになに自殺企図???アマンダの娘曰く、今までアマンダはこんなこと一度も口にしたことない。きっと鬱にでもなっているのよ、って。そういえばアマンダの親友も帰り際に”欝っぽいからどうにかしてくれ”って言っていた、と休憩前の会話を思い出す。

もう一度カルテを読んでみる。看護師、医師、MSWとの記録。そして患者のところへ向かう私。

 

ベッドサイドに座ってアマンダに症状のことを聞く。今は落ち着いていると。身体的な症状以外は?と尋ねると”気分は最低よ。疲れたの、私本当に疲れたの、自分の体がどうなっているのかわからないし、トイレも自分で行けなくなったのよ。もう疲れたの生きていることに。だから早く終わってほしいの!”とはき捨てるように言った。私は黙って彼女の手を握りながら聞いた。”どうして便がコントロールできなくなったりするのよ、これからどうなるのよ”と怒りと不安が入り混じった声。私は数日前緩和ケアの医師が診察したことを覚えているかどうか尋ねた。彼女は忘れたわ、知らないわよ、と即答する。私はその日アマンダは同じように身体的変化がどういう風に起こるのか不安で医師に説明を求めたこと、説明を聞いた後に彼女が落ち着いたことを話した。アマンダの表情が変わった。思い出したような顔だった。私は続けて、今起こっていることはあの時医師が話したことではないですか?と静かに確認するように話した。アマンダの目が静かに閉じた。そして”もういいわ、私話すことにも疲れたの、あなたどこかへ行ってちょうだい”と。ゆっくり立ち上がりながら”いつでも質問があったり、話したくなったら呼んでね”と病室を離れた。

 

自殺企図ではない。今まで接してきた多くの患者も同じようなことを言った”もう疲れたの”と。簡単には説明できない、簡単に通り過ぎることができない、心にとってつらい道を歩んでいる人たち。少しでも力になれたなら、、、と思った。

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